2011年5月28日土曜日

しもたま柔道&闘病日記その38

そうこうしているうちに、ドーンさんの帰国日がせまってきた。東北地方にいる彼氏と、数週間遊んでいた彼女は、いっしょに岩登りに行って滑落し、運悪く足を捻挫してしまった(下の沢まで落ちたらしいから、それくらいですんでよかったというべきか)。私と同じ左膝を捻挫した!同じように大人になって柔道を始め、同じように黒帯びをとり、同じように直後に左膝を負傷するなど、本当にドーンさんは人まねが好きだ。そんな所までまねなくてもよかったのに。滝川先生ご夫妻が、私と義兄をドーンさんとのお別れ食事会に誘って下さった。私たちは道場でいっしょに記念写真を撮り、ドーンとの再会を誓い会った。余りに、名残が惜しく、私と義兄は、ドーンさんの見送りに、関空まで出かけた。まだ、帰国がピンと来ない。たった2年間だったが、家族の1人のような気がしていた。ドーンさんのいない職場や柔道場なんて、考えられなかった。滝川先生も、孫が外国に行くようで、さぞ、寂しい思いをされていることだろう。
滝川道場では、小学生がますます強くなり、ついに道場の6年生の女子が、45kg級と45kg超級とで、それぞれ優勝と準優勝を果たすまでになった。優勝した子は晴れて全国大会出場、というわけで、先生ご夫妻と、我々は、滝川の小学生初の全国大会を応援すべく、秋田へ赴いた。試合結果は初戦を白星で飾り、2試合目は前回の優勝者の東京代表とあたる不運で、惜しくも敗退した。他の選手が3秒以内に投げられる中、彼女は2分近くも粘り強く闘った上での負けだった。先生も私たちも、自分の試合のように緊張し、自分の試合のように落ち込んだ。秋田旅行はとても楽しい思い出になった。滝川先生のほうは、昔、秋田国体の時に来て以来で、青春時代の思い出に浸っておられた。「昔泊まった、男鹿半島の旅館は今でもあるやろうか、、、」とおっしゃって、試合後に観光にでかけられた。われわれは、田沢湖に泊まったあと、名物「稲庭うどん」の体験をしに行った。工場の責任者と意気投合し、うどんとみかんを物々交換する約束をしてきた。東京の人は大きいみかんが好きで、東北へは大きくて大味のみかんを送る。しかし、秋田の人は関西人に負けず味にうるさい。うどんが関西風の薄味でだしがきいていることからもわかる。みかんは、愛媛から小さい甘いものを取り寄せているという。ぜひともこれは、おいしい有田みかんを食べてもらって、愛媛との味の違いを知ってもらわなくては。そして、こちらはみかんでうどんを釣るのである。今年の冬が楽しみだ(その後、12月にうどんを送ってくださいました。ごちそうさまでした)
秋田から帰ると、微熱が続き、結局たいしてリハビリができなかった。しかし、トレーナーの西林さんは、熱が続いてもトレーニングを少しずつしていたことを評価してくれた。うれしい!やる気が出る!「受験(試合)」に向けた本物の「家庭教師(トレーナー)」を得たのだ。こうして、バレエとともに「スポーツリハビリ」という新しいトレーニングが始まった。

病院では、自転車こぎやジョギングのトレーニングで、筋力をつけて、走れるようになったら日常復帰といわれる。しかし、それでは3輪車に乗れる幼児と大差が無い。前回、日常とスポーツの間に広がる険しい崖の話しをしたが、患者が「3才児の運動能力」、スポーツ選手は「大人の運動能力」といったくらいの違いだろうか。ジグザグに切り返してラケットでボールを打ち返したり、ジャンプしてアタックやシュートをしたりというのは、もっと高度なバランス感覚と筋力を要する。
西林さんのリハビリは月に2回のペースで続いた。これまでの私は、10年前にスキーで傷めた右膝をかばって過ごしてきた。というわけで、スポーツリハビリでは悪い左足ばかりではなく右側も筋肉をつけたり、染み付いた悪い癖をとったりが必要で、他の患者さんより何倍も苦労があった。まず最初にジャンプのトレーニング。筋肉の使い方を思い出しジャンプが安定してくると、ジャンプしながらターンする練習にかわり、「①深い屈伸のままの移動」や、「②筋トレ2種類」と「③片足立ちのバランス」が加わった。その後、「④すばやい両足のターン」を増やすと案の定、元気な右足のほうが先に筋肉痛になってしまった。
スポーツでは、バレーボールのレシーブにしろ、柔道の背負い投げにしろ、しゃがんで重心移動するのは重要な動きだ。足を踏み出すたびに重心が左右に揺れるのを防ぐには、骨盤付近の筋力が必要である。メニューの強度など、全ては科学的に計算されている。とても、自分の頭ではここまでメニューを考えられない。きっと、知らずに手を抜いてたり、あるいは負荷が強すぎたりして、挫折してしまう。トレーナーの存在をとてもありがたく感じた。
10月も入ってくると、足の傷そのものが安定してきたような気がした。安全にスポーツするには切ってから910ヶ月かかるというのはやはり本当だった。捻ったり転んだりする可能性が減った。喩え転んでも安定しているため、以前のように関節がずれて傷まないと思う。バレエも農作業も、不安なくこなせるようになってきた。この感じでは、11月~12月の収穫作業に間に合いそうだ。2月から感じていた焦りと胸のつっかえがとれた気がした。
11月、いよいよ、1年で最も忙しい温州みかんの収穫時期が始まる。初めは1日中、収穫ばかりを繰り返す。和歌山県の有田地方は平野が少なく、したがって我が有限会社の農地は斜面の傾斜がきつい。場所によっては30度くらいあって、そこで10kgになる収穫用のの籠を肩からぶら下げ、歩き回り、木にも登ったりする。そして、20kg入るプラスチックのみかん「コンテナ」という入れ物に移し変えて、その20kgを両手で抱えて、モノレールまで歩いて運ぶ。それを何十箱も、トラックに積み込む。特別なことはしなくても、筋トレになる。いや、この日のために、1年かけて筋トレをしてきたといっても過言ではない。いきなりみかんコンテナを運んで腰を痛めないために、日ごろから柔道しているのだ。やがて、半日収穫しながら、早朝から深夜まで箱詰め作業をするようになる。近所の家には、早朝4時ごろから夜12時すぎまで20時間以上働くところもあるが、有限会社末広はせいぜい1415時間程度だ。シーズンが始まりだすと、日曜日も祭日もなく、延々と50日間ほど無休で働く。今年は、年末に極端に寒かったせいもあるが、みかんが終わったとたんに葬式が毎日いくつもいくつも集落で続いた。なかには、年端のいかない乳児もいて、葬儀が痛々しかった。病院に行くのを我慢して、過労やガンで倒れる人の数は知れない。
2004年の10月に手術前に筋トレを始めてから、約1年たった。早いもので、柔道を始めて4年、35歳になった。長かった2005年が終わった。脚はみかん作業で鍛えられ、見違えるように筋肉がついた。正月早々、カナダ人のドーンさんに会いに行くことになった。カナダではない。タイだ。彼女は、ボランティアで英語を教えに、タイの田舎町に住んでいた。その昔、旧日本軍がビルマ攻略のためにひいた泰緬鉄道沿いで、すぐ近くにミャンマー(旧ビルマ)国境があった。彼女は外国人の少ない田舎で、マラリアの危険も顧みず、冬でも40℃近い猛暑の中、がんばっていた。誘われて、小学校の授業を見学した。子供たちの約半数が、孤児院の子供。どの子も制服のこざっぱりとした赤いポロシャツを着ている。古着っぽく見えない。全員の教科書もなく、教材はほとんどが手作りだった。小学生なのに60分授業。さすがに、1年生は落ち着かなくて、トイレにいきたい、水が飲みたいという(英語で!)。しかし、高学年は英語を身につけようと、真剣に授業を受けていた。日本の小学校では近年見られない、子供たちの生き生きとした光景が新鮮だった。日本では中高生でも、こんなに集中して60分授業を受けられるだろうか。放課後、柔道クラブがあるというので、早速参加してきた。2年ぶりの乱取り(練習試合)。思うように足が出ない。すぐに息があがった。しかし、体が覚えてくれていて、黒帯の面子を保つことはできた。
これに自信をつけて、帰国してすぐにバレエだけ出なく、柔道にも復帰した。初めはうちこみ、そして白帯と乱取り練習を始めた。さらに、いっしょにマスターズを目指していた3段の人が、足運びの練習を買って出てくださり、組みながら前後左右に動き回った。すると、左足の動きが鈍いことが目に見えてわかった。何度も書いたように、傷が治り筋肉がついても、スポーツするためには別のトレーニングメニューがいる。みかん作業にない動きを補充すべきだ。苦手の左ステップ練習は、道場で自分で工夫して行うことにした。
2006125日、久しぶりに住みや整形外科に行き、旧姓西林さんの訓練を受けた。30秒間で腹筋を33回出来たとき、「もう、スポーツリハビリは終了です」と言われた。34回がアスリートレベルなんだそうだ。うれしくもあり、さみしくもあった。果たして手術して正解だったか?私にとっては、やってよかった。私はラッキーだった。同じ頃手術をした他の人は、いまだに違和感を抱えていたり、日常さえ復帰できないでいる人もいる。そんなわけで、だれにもかれにも手術を勧めようとは思わない。でも、きちんとした医師とスタッフがそろった病院で切り、気心の知れた理学療法士や整骨院でリハビリを行えるなら、チャレンジする価値はあると思う。そして、私は復活した。マニアックな文章につきあって下さった読者の皆さん、ありがとうございました。    

しもたま柔道&闘病日記その37

もうすぐ筋力測定の日というのに私は、2kgも筋肉を落してしまったためにたいした期待もなく、のんべんだらりと過ごしていた。当日はなんの考えも無く、いつものリハビリの“のり”で出かけていった。理学療法室につくと、トレーナーや療法士の方々が、つぎつぎと「測定頑張ってね」と声をかけてくれた。私は合点が行かなかった。「なにをがんばるんですかあ?機械が測定してくれるだけなのにぃ、、、」「あなたがどれぐらいの力を出せるかを測るんですよ。汗だくになりますよ」「ええっ!!レントゲンやMRIみたいに、じっとしていたら筋肉量が出るのではないのですか?!」
私は浅はかだった。勝手に体脂肪計のようなやつをイメージしていた!アップもストレッチもそこそこに、私は歯医者さんの椅子のように周りにいろいろな器具の並んだ、ひざを曲げ伸ばしする椅子に座った。太ももの前と裏の筋力を測るというのだ。瞬発力と持久力。その頃、私が重点を置いていた筋トレは、サイドステップとかツイスト(的外れなことに太ももの左右の筋肉だ)。普段ランニングをしているから、スクワットはもういいやと、あまり力を入れてこなかったのを悔やんだが、もう遅かった。それにしても、治療とリハビリは患者からすれば、ルート地図もなくいきなり登山をするような気分だ。準備も計画もなく、行き当たりばったりの出来事ばかりだ。楽天的な人はいいけれど、私は自分の置かれている状況を知らずに動くのは苦手だ。スリルがありすぎて心臓に悪い。
結果は、予想通り、さっぱりだった。まず、太ももの前の筋肉は、とてもスポーツしている人、スポーツ復帰を目指している人のレベルではなかった。大腿部の裏になると、もっと悲惨だった。日常生活に必要な筋肉の7割ほどしかなかった。特に、手術で筋肉をはぎ取った左側が、右の半分くらいしかなかった。トレーナーの西林さんも言う。「高校生で、270%くらいはあるのに。もうちょっとあるかと思った。ははは、、、」。落ち込んでいると、理学療法士のK氏がこういうではないか。「(32歳の年齢で)そんなにあるんですか。もう、日常生活は充分できます。柔道をしないならリハビリに来る必要はありません(二度と柔道をしないなど、言った覚えはない、マスターズを目指していた私に対して、失礼であろう)」その言葉はいっそうショックだった。私は、自分が思っていた以上によっぽど素人扱いされていたのだった。私としては、スポーツリハビリが一流の角谷でわざわざ切ったつもりであった。しかし、K氏にすれば、手のかかる患者は治ったらさっさと早く通院をやめてくれたらええのに、、、」と言いたげなのだ。そんな風に言わんばかりに、「もう来なくていい」と言われても、「はいそうですか、おおきにありがとさん」とはいえない。私は「世間の普通の日常生活ばかりでなく、収穫作業や登山、サッカー、柔道、、、」の菰池 環である。ジャンプもターンも出来ないというのは、スポーツリハビリのレベルでいえば、まだまだ病人の範疇である。ここで放り出されてはたまらない。食い下がることにした。K氏ではなく、例のラテンのQ氏にだ。
Q氏に「あのう、お話があります」と、真剣な顔で近づくと、受付のおねーさんは顔が凍り付いた。しかし、正々堂々、言うべきことは言わねばならない。「私は柔道復帰が目的で、手術したのですが、その事がK氏のほうにうまく引き継ぎされていないようなんです。スポーツリハビリを受けたいのですが、、、」明るいQ氏は明るい声でこう返事してくれた。「僕のほうから、西林に伝えておきます。彼女、週に2日だけ、来てますから。今度の水曜日の夕方来てみてください」。Q氏が神様のように見えた!職場のことを根掘り葉掘りきく、無神経な人と誤解していたら、間違いだった。頼まれたら断れない、やさしい親切な人だっただけなのだ。こうしてQ氏のお陰で、スポーツリハビリが始まった。
私がまず初めにトレーナーの西林さんに組んでもらったのは、ただのジャンプだった。普段のランニングではもちろん片足で着地しているから、こんなの楽勝!と思い気や、全身汗だくになる。10cmの段差どころか、その場でちょっと飛び上がっただけで、ひざががくがく。1m以上の台から飛び降りたときのように、あまりの衝撃に骨や軟骨や筋肉が悲鳴をあげる。身体が、どの筋肉をどの順番で縮めるかを忘れてしまっているために、まともに腰や頭に振動が伝わる。足首とひざと脚の付け根3ヶ所の、ジョイント部のコンビネーションがうまくいくようになったのは、その一ヶ月後だった。とまあこんな感じで、ジャンプひとつとってもすぐには思い出せないのだ。

しもたま柔道&闘病日記その36

角谷整形外科には優秀なスポーツリハビリのトレーナーがいる。西林さんだ(今は結婚なさって名前は変えられた)。彼女には、入院中から相談に乗ってもらい、かなりお世話になった。しかし、その実力を買われ、大阪の専門学校の講師として就職してしまった。4月以降もう、角谷でスポーツリハビリを教えてもらえないと悲しんでいたら、彼女はまだ辞めていなかった。週に2日だけ角谷に来てくれている。スポーツトレーナーの仕事はまだ、和歌山ではメジャーではない。理解者が少なく、苦労が多いと聞く。スポーツ科学を熟知したトレーナーが、病院で指導してくれるおかげで、一部のトップアスリートばかりではなく、今では普通の中高生でもその恩恵を受けられるようになった。トレーナーは理学療法士よりいっそう医師に近い職種であると思う。選手一人一人にあったメニューを豊富な知識や経験から選んで処方する、知的な仕事である。
私は以前、ひざの内視鏡検査で、たかが1週間の入院で、スポーツ復帰に6ヶ月もかかってしまった。その苦い経験から、日常生活とスポーツレベルのあいだに横たわる“崖”の険しさを良く知っている。それは、岩登りというより沢登りに近い。自分で登れそうなルートを見つけつつ、どろどろのもろい崖を、泥んこになってはい進むような感触である。簡単に直登、または高巻く人もいれば、あるいは行き止まりに泣き、やがてあきらめて引き返す人も出てくる。昔の私はこの譬えでいえば、手探りで高巻きをし、すぐにひっこぬけそうな草木をにぎりながら、何度も壁からずり落ちたために時間がかかったといえる。どろかべに慣れているかの経験が物を言う。トレーナーがいてスポーツリハビリをうけるということは、安全なロープをつけながら、セカンドで沢登りしているのに等しい。登るのは選手自身だが、科学的に計算された手順や器具で、確実安全に目的のレベルまで引き上げてもらえる。
しかし、多くの中高生は、スポーツ科学とは無縁の世界をさ迷う。コーチの多くが、退院するとさっさと競技復帰させてしまうからだ。さっきの滝のたとえ話しでいくと、「ロープ無しで根性で、滝を直登しろ」と言うのと同じだ。 “屋内の”難しい岩壁をのぼってきた技術ある子供たちは、人工壁の気軽さで、コーチの言うがままに傾斜のやさしくみえる“自然の”滝の直登を試みてしまう。実力があって、あるいはたまたま本当にゆるやかな滝で、直登できてしまう子も多い。しかし不運な子どもは、コーチの言葉通りチャレンジしようとして濡れた岩で手足を滑らせ、確保の無いまま滑落していく。つまり、競技から脱落し、そのまま一生怪我を抱える子どもも少なくない。自分で物を考えられる頭のいい子供は、コーチのいうことを無視してマイペースに滝を高巻くこともある。その子達は、コーチの言うことを聞かない練習をさぼるやつだと勘違いされてしまう。最悪の場合、スポーツクラブから見捨てられる。スポーツトレーナーの西林さんの悩みの種は、こういった自分の身を守るすべの無い子ども達に、どうやってリハビリを続けさせるかということだ。大人の意識がまず変わるしかない。しかし、大人の頭は固く、道のりは厳しい。
私は、4月から7月のあいだ、理学療法士のみ指導を受け、トレーナーの指導は受けてこなかった(理学療法士のYが、私にはまだ早すぎると言って、受けさせてくれなかった)。それで、またもや日常生活とスポーツレベルのあいだに横たわるいやらしい“崖”に直面することとなった。なにか、別の手を打つ必要があった。このままでは、柔道復帰どころか、1112月のみかん仕事復帰もあやうい(柔道場にもどったら、柔道にいっそう近づけると思っていたが、逆に「おあずけ」をくらっていた)。私は、再び柔道場に通うのを辞め、体の感覚をつかめる、そして筋力のつくことを始めることにした。対戦式格闘技ではなく、どちらかというと柔道の「形(かた)」にちかい、クラシックバレエである。ただ、カナダ人ドーンさんの帰国が8月に迫っていたので、7月までは道場に通い、バレエのほうは8月から始めることにした。
角谷では、理学療法士Y氏が転勤し、私の担当は4人目にして最も優秀なK先生にかわった。正直言って、どうせ替わるなら、もっと早く替わって欲しかった。そうすれば、海南に移ることもなく、例の「魔の2週間」を味わうことなく済んだのだ(「魔の2週間」については、その10を参照のこと)。医師とK氏にそれぞれ、「柔道やめて、とりあえずバレエを始める事にしました」というと、口を揃えて「バレーですか(球技のやつ)」と言った。その後でダンスのほうだと知るやいなや、お二方とも息を詰まらせたようにのけぞるのだ。
むかし柔道していた子が、何十年経っても体で柔道を覚えているように、私の体はバレエを覚えてくれているはずだった。新しいスポーツではないので、何をやったら膝にくるか、他の競技よりもよくわかっている。バレエを選んだのは、ただたんに“昔取った杵柄”というばかりではない。太極拳や空手をやっている方はご存知だと思うが、格闘技の形と舞踊には共通点が多い。昔、武術を禁止された琉球の人が、舞踊だと称してこっそり形の練習をしていたと聞く。以前、お笑い番組で、意外な人が意外な体験をするシリーズがあり、漫才師や空手家がクラシックバレエをかっこよく踊るというものがあった。一番美しく優雅に舞ったのは、2枚目の俳優でも、器用な漫才師でもない、筋肉隆々で髭づら無骨の空手家(最近、総合格闘技の審判をしている)であった!ダンスは「ゆっくりとした膝の屈伸(ひざの筋トレ)」、「美しいフォームのバランス」、「開脚(ストレッチ)」、「音楽に合わせたステップ(敏捷性)」の四重唱。まさしくスポーツリハビリなのだ。筋力測定とリハビリのようすは次号に続く。

しもたま柔道&闘病日記その35

ついに道場とジョギングの許可が出た!角谷の生活リハビリも週に1回通うだけでよくなった!職場も家から5分のM高校の分校。そして、待ちに待った滝川柔道場に復帰するのだ。岩崎医師に道場練習について確認すると、レントゲンの結果、骨の硬化も順調で、重い荷物を持っても大丈夫。旅行も軽いハイキングもOKという。理論上は背負い投げで相手の体重が乗ってきても、もう関節に関しては大丈夫ということだ。ただ、「打ち込み」は止めておくようにと言う。筋肉が伴わないと、肉離れを起こしたり、靭帯に負担がかかって危険なためだ。筋力測定で安全を確認したらOK。ということは、5月に筋力測定だったら、5月に許可がもらえて打ち込みができたのになあと思った。が、あせらなくても自分さえしっかりしていれば筋トレはやり遂げられると、まだ信じていてた。岩崎先生はそれよりも、 Y氏のリハビリについて、驚きを隠せないでいた。実は4月時点でハーフスクワット(90度屈伸)までしか許可が出ていなかった。それなのに検査好きのY氏は、どこまでひざを曲げても大丈夫か、深い屈伸のテストをさせていた!しかし今ならもう、しゃがんでもいいと医師はいう。6月からしっかり打ち込みが出来るように、一生懸命練習しようと思った。それには、基本からやるべきだろう。まず、柔道の「形(かた)」からするつもりだと岩崎先生にいうと、賛成してくれた。「形」をするために、ますます、腹筋や背筋、腕立て、スクワットに励んだ。だがここに来て、通勤と通院が忙しく、柔道の滝川先生と連絡を密にとっていなかったつけがまわってきた。
練習の日、道場では何が起こるかわからないので、念のために装具を付けていった(装具があれば、急な接触でもひざを守る事が出来る)。滝川先生に、柔道場でトレーニングしてもいいかと尋ねると、いいと言ってくれた。「もう、乱取りしてもええんか」「乱取りはまだまだ先、1年後ぐらいです」「では、打ち込みは」「うちこみもまだですが、形(かた)ならやれます」、近況を報告し、筋トレが必要なことをうったえた。しかし、先生は術後3日目の一番たいへんな時の私しか見た事が無かった。「乱取は1年後」というのをひどく強調しすぎたらしく、私をかなりの重傷と判断なさった。装具の見た目も悪かった。装具はかぼそい筋肉を補うためで、はずすとまったく歩けないと思われたようだ。「受け身は足に衝撃があるから危ない」「環さんは形をせんでもええ。形の試験も来んでもええ。他の先生にまかしといたらええんや」と、つれない。折りしも中学生の女の子達が形の試験を受ける頃だった。私はリハビリがてら一緒に形の練習が出来るものと思い、はりきっていたのでがっかりだった。しかたがなく、私は1人、もくもくと鉄アレーと格闘することになった。
その頃カナダ人のドーンさんは、黒帯をとってから賞状が来るまで試合が無いので、すっかりやる気を失っていた。そして、2段の男性を捕まえては、「10秒でなげてごらん」とけしかけていた。その2段の男性は私と同じく大人になってから始めた人で、最近子育てが忙しく、柔道が久しぶりで、ドーンさんのけしかけに喜びながらもへろへろになっていた。暇を持て余しているドーンさんが、完全復帰までのトレーニング相手になってくれないかと考えたこともあった。1年半前に初めてドーンさんが道場に来たとき、私は週に4日柔道をして一番油の載った時期だったが、他の人と練習するのをあきらめ、ドーンさんに付きっきりで手取り足取り、技を説明した。人を教えるのは自分の勉強になるし、一緒に投げ込みをするのは楽しかった。あの頃の私のように、逆にうまくなったドーンさんが私の練習相手をしてくれないかなあと、ひそかに期待した。
しかし、ドーンさんは私の15倍も背や体重があり、いざというときに巻き込まれる危険が高かった。それでなくてもふざけるのが好きで、口やら足でけしかけてくる。昔、ビシバシとしごいた「し返し」をしてくるのだ。そのくせこっちが真剣に技をかけると、こらえきれずによろよろと寄りかかってきたりもする。本人も私も予測が付かないのは危ない。しかたなくあきらめた。立ち技でなく寝技の約束練習だったら出来るかも、、、と思ったが、ドーンさんは寝技が嫌いだった。始めてすぐの頃、「3段のおじさん」に首を絞められて以来、すっかり嫌いになってしまった。そのうちにね、といいつつ、とうとう一度も寝技の相手をしてくれることはなかった。
復帰したばかりの例の2段の既婚男性なら、適任かもしれないと思った。彼なら身のこなしがうまいし、家族も2人、膝の手術をしていてよくわかっている。声をかけたところ、彼の反応は散々だった。「こんなにすぐに道場に来て、柔道バカか?」「筋トレのために、練習が必要です。弟さんも、膝の手術後、筋トレしてたでしょう」「……弟は柔道なんかやってない。手術して3年、もくもくと水泳で体力を付け、ようやくスポーツ復帰したんや!」すごい顔でにらむと、その後口をきいてくれなかった(わたしゃ3年もよう待てまへんがな、、、)。最後の頼みの綱は、一緒にマスターズ大会を目指す予定で、病院にお見舞いにも来てくれた3段だ。彼はいつまでたっても復帰してこない私を待ちきれず、7月に入って道場にあまり来なくなってしまった。相手がいなくては、形の練習は出来ない。こうして、受け身も打ち込みも、形の練習もできず、道場では暇だった。見ているばかりでは時間がもったいないので、家と道場の間のランニング時間を増やし、しだいに道場で過ごす時間は少なくなった。
ところが、である。猛暑とランニングが功をそうして、私のからだは日ごとにやせはじめた。腹の立つことに、筋肉の消耗で体重が落ち、かわりに脂肪率が増加していく。こんなはずじゃあ、、、当初の予定では、5月から形で筋力を付け、柔道の感覚を少しずつ取り戻し、慣れた6月頃から相手付きで「打ち込み」を始め、秋には早ければ「投げ込み」をするつもりでいた。目算が狂った。当たり前である。週に1~2回道場で鉄アレーを握って、脚の力が付くはずが無い(鉄アレーは悲しいかな、腕力の一部しかつかない)、仕事と合唱の練習が忙しく、家でのリハビリの時間はほとんど無く、道場が唯一だったのも災いした。こんなことなら、退院後からしょっちゅう滝川先生の整骨院に通って、近況報告をしておくんだった。道場で練習さえできていれば、こんなまぬけなことは起こらなかったのに。信州で国体選手としてサッカーをしている友人に、「魔の二週間」以来のリハビリ失敗の愚痴を言うと、「私なら、切るのはイイ医者で切るにしても、最初から親しい整骨院のところで一貫して理学療法とスポーツリハビリとをうけるなあ」と、言われてしまった。そう、私は目先の最先端のトレーニングマシーンや最新のスポーツリハビリにとらわれすぎて、私を心配し一番理解してくださっている滝川先生をないがしろにしていた。本末転倒だったのだ。
こうして、角谷に週二回ほど筋トレに通っていた4月末に比べて、2kgも筋肉をダイエット(10%近くも脂肪が増加)してしまった私は、よりにもよって念願だった筋力測定をいよいよ受けるはめになってしまった。ああ、6月の筋力測定の結果はいかに。次号に続く。

2011年5月23日月曜日

しもたま柔道&闘病日記-その34-

しもたま柔道&闘病日記-その34-
理学療法士とは、私にとってはスポーツ復帰のために助言してくれるマンツーマンの先生であると思っていた。受験のための家庭教師のように「この時期にはこの問題集だよ」とか、試験に向けて長期展望を持ち、欠点を克服し、長所を伸ばしてくれるものだと思っていた。ところが、理学療法士Q氏やY氏のイメージするリハビリは違った。自主性を無視し、全てをマニュアル通りに管理した。“スポーツやリハビリに無知な者”を扱うように、、、ふと私は、最近の子ども達も学校で、教師にすべてを監視され、こんな気分を味わっているんだなとも思った。彼らは、豚や鶏の群れを飼育するように、検査や測定をし、悪化しないよう行動を管理しようとした。彼らは患者に、リハビリをまかせるたがらない。何かあったら、責任は取りたくないから患者を管理する。信用されずに頭ごなしに叱られるから、多くの患者はかえってやる気が出なくなるのだが、、、。

こうして、家の近くでもりもりリハビリをしようと欲張ったところ、「魔の2週間」のせいで、逆に回復を遅らせてしまった。やっぱり、切ったところで診てもらうに限る。主治医に嫌われた以上、海南でリハビリは続けられない。角谷に戻るしかない。問題は誰がリハビリを引き継いでくれるかだが。海南のあの温厚な理学療法士、そして、私を選手として扱ってくれたスポーツドクターと別れるのはつらかった。翌週、松葉杖を返しがてら、スポーツドクターに会って、診てもらったばかりなのにもう病院をやめることを告げた。ドクターは驚いていたが、「4月からランニングができるように、角谷に紹介状を書いておきます」と約束してくれた。かすかな希望の火がともったことに、感謝した。
面の皮を厚く、平気の振りをして角谷に舞い戻った私。岩崎医師は気持ちよく受け入れて下さった。そして、自分の過ちではないのに、その病院の医者の態度をゆるしてくださいと、私にあやまって下さるのだった。転院した私に、「ほれ見ろ」といっても仕方が無いのに、どこまでも理想の医師の態度をつらぬく、ありがたい先生だ。
一方、理学療法の部屋に行くと、担当はまたもやY氏だった。Y氏も嫌な患者が舞い戻って、不幸だったことだろう。Y氏は過去のことは良いことも悪いことも全て水に流して接してくれた。つまり、角谷を去る時どんな足の状態でどれだけリハビリが進んでいたか、全く覚えていなかった。私のリハビリは、入院中のレベルにまで落ちてしまった。
「魔の2週間」の後、膝の腫れが引いてきてリハビリやる気満々の私は、適切なトレーニングに飢えていた。
Y氏のリハビリ手順はいつもこうである。まずどのくらい関節がゆるいかを最初に確かめる。まるで重度のアル中患者のような手つきだ。膝の奥の靭帯が振動し気持ち悪くなってくる。それでも、その儀式が終わらないと次のステップに移らないので早く終わることを祈って我慢する (ちなみに、膝をゆするとかえって回復が遅れる。最悪の場合は靭帯をいためる)。続いて、「まだ膝頭は傷みますか?」と必ず聞いてくる(膝頭に痛みを抱えているから、揺すると痛いと思い込んでいる)。「膝頭はまったく痛くないです」と何度言ってもすぐ忘れるので困惑する。他の患者と混同しているらしい。痛くないというと、私に診察を拒絶されたと思い、困った顔をしている。つづいて、足首を持って筋トレだ。足首を下に引っ張りながら前後に動かすので、膝が抜けそうでこわい。機械を使って筋トレするほうがよっぽど安全だと思う。多くのお年寄りがリハビリに行くと余計に悪化するとぼやいている気持ちが良くわかる。
仕事が熱心で几帳面な方なだけに、今さら「他の理学療法士にして欲しい」と言い出すきっかけもつかめず、私は悶々としながらリハビリに通った。そのころ、私の自主トレは日頃のウォーキングと自転車の他には、「ハーフスクワット」と、「かかとあげ」だった。このメニューははるか昔の入院中にトレーナーの西林さんに健脚の右足用に組んでもらったものだ。その後、岩崎先生の指示で両足で行うようになったが。そして、海南で習ったスケーテイング(アイススケートのような動作)。たったそれだけだった。
私は自己アピールを惜しまなかった。「もっと、いろいろできます。筋トレを増やして下さい」と、思い切ってお願いしたところ、こんな指示があった。「まず(座って足を投げ出し)足の甲をのばしたり爪先をあげたりを10回して下さい。それから寝転がって足を空中に持ち上げて数秒我慢して下さい。」目が点になった。それは私が術後4日目に行っていた、ごくごく初歩のトレーニング内容だったからだ。毎日2km歩いたり、たまに数km自転車にのったりしたりして、足首の筋肉はしっかりしていた。正座事件で筋肉が落ちたというものの、そこまで筋肉が無いわけではない。高校生が受験を前に、ひらがなや九九の練習をしているような、そんな気分を味わった。寝る間を惜しんで遠距離を通院する時間がもったいなかった。
春休み、私は筋トレを兼ねてみかん畑に繰り出した。柔道はさておいて、今年の11月に収穫作業に復帰をするために、畑仕事のトレーニングだ。始めは平らな畑で、短時間から始めた。1本の木につき何度も屈伸をする。土の地面に立つだけで、バランス感覚を培う効果もあった。4月の私は希望に満ちていた。ランニングができる日が来ることが心の支えであり、リハビリを続けるモチベーションだった。筋力は日ごとに高まり、柔軟性も高まり、短い時間なら正座ができるほど膝が曲がるようになっていた。私は再びY氏に、さらに進んだ筋トレを組んでくれるよう頼んだ。するとY氏は、ゴムバンドを使ったリハビリ方法を教えてくれた。ゴムを足に巻きながら、腿上げや開脚をするという。ようやく、筋トレらしくなってきてうれしかった。Y氏はしばらく考えてから言った。「ホームセンターで一番弱いゴムを買って下さい。」一番弱いゴムというのは、付けたかどうだかわからないほどの弱さで、手で簡単に引き千切れそうだった!!まるでコントの世界だ。ただ笑うしかない。
Y氏にわかってもらうには、筋力測定を受けるしかない。 Y氏は検査を重んじ、科学的数値に信頼を置いている。数値で私の筋力を知ったなら、きっとふさわしいリハビリを組んでくれるに違いない。私は診察で岩崎医師に、筋力測定を希望した。しかし、事情を知らない岩崎医師は笑うばかりだった。「今、筋力測定をしても、思ったほどなくてがっかりしますよ。6月頃にしなさい」。私はすぐさま623日の検査を予約し、代わりにレントゲンを撮った。結果、骨の硬化も順調で、重い荷物を持っても大丈夫。軽いハイキングもOKという。背負い投げで相手の体重が乗ってきても、もう理論上は、関節に関しては大丈夫ということだ。ただ、相手のある「打ち込み」はまだ止めておくようにと言う。筋肉が伴わないと、肉離れを起こしたり、靭帯に負担がかかって危険なためだ。6月の筋力測定で安全を確認したらOK。ということは、5月に筋力測定だったら、5月に許可がもらえ「打ち込み」ができたのになあと思った。が、あせらなくても自分さえしっかりしていれば筋トレはやり遂げられると、まだ信じていてた。筋力測定の結果がよければ、7月から柔道の打ち込みや投げ込みができる。早ければ、秋には「乱取り(試合形式の練習)」ができるかもしれない。1年もあれば、練習試合できるまでに動けるだろう。そして、リハビリの遅れを取り戻すのだ。
そのころ、角谷整形外科では、理学療法室の大改革が始まっていた。まず、たくさんあったトレーニング機器は半分に減り、その空間には新しいベッドが置かれた。そして、新卒の理学療法士を大量採用したのである(われらがY先生も新人が付きっきりで、Y先生から技術を学ぼうと懸命だった)。私が遠方からリハビリにくる目的のひとつは、この機器だった。上半身の筋肉を落とさないように、油圧式や空気式の機器を使ってのトレーニングは、手術前から、かれこれ半年は続いている。その機器が無くなって、練習量が半分になったという訳だ。私は、柔道場で筋トレをすることを願い出た。道場には鉄アレーやゴムバンドがある。週に2回の和歌山通いを1回に減らし、そのかわり道場に週に2回通えば、充実したトレーニングができる計算だった。
「練習量を減らしたい」Y氏に相談すると、あっけなく意外な答えが返ってきた。「もう、ジョギングをしてもいいし、一人でするスポーツなら何をしても良いですよ。サポーター無しで筋トレしてもいいです。もう、筋トレに制限はありません。柔道場では、相手のない練習だったらどうぞお好きなように」。足首体操の次はいきなり無制限ですか?!同じ4月なのに、極端な対応だ。が、私は素直にジョギングの許可を喜び、柔道場に戻れることにわくわくした。まずは、柴犬との散歩で短い距離を駆け足で走ってみて、調子が良さそうだったら柔道場の往復を、走っていくことにした。来年夏の試合に向けての練習が、いよいよ目にみえて来た気がした。

しもたま柔道&闘病日記-その33-

しもたま柔道&闘病日記-その33-
だが、不安は適中した。次のリハビリの日、いつもは温和な担当の理学療法士が険しい顔をしている。そして、私に尋ねた。「“無茶をする”って、どういうことですか!!」“無茶”事件のほうか!どうも、カルテを書いたのは主にQ氏のほうだったようだ。CPMを十数時間したときのことだろうか。それとも、術後1週間でスーパーに見舞い客のためのコーヒーを買いに出かけたことだろうか。室内履きの靴を脱がそうとして、私の足をひねられたことだろうか。それとも、早く退院させてくれと岩崎医師に泣き付いたことだろうか(私には心当たりが山のようにあった!)。そもそも、入院前からきちんと筋トレをしていることをQ氏は快く思っていなかった。「そんなにやっても、どうせ筋肉は落ちるんや、やめとけ」って、よく言っていた。筋トレのし過ぎのことを言っているのだろうか。Q氏が無茶という言葉を吐きそうなシチュエーションを探ってみたが、どれももっともらしく、どれも確信が持てない。私はひとつだけ、確信の持てる話をした。「私が無茶と言われるのは、果樹園で肉体労働をしているからかもしれません。収穫作業時は、たとえ病気であろうと丸一月は無休で働き続けなくてはならない。収穫期の後に、病気や過労や不注意の事故で死ぬ人もある。私も職業柄、筋肉を酷使して、倒れるぎりぎりまで頑張ってしまうところがある。その話をリハビリでしたところ、理学療法士に無茶なといわれました。彼は、農業の厳しさを知らないから驚いたのでしょう」と。「なるほど、、、」というものの、これまでのような暖かな言葉はなく、やはり無茶をするからと、少なかったリハビリは更に減らされてしまった。目の前が真っ暗になった。
病院や先生の引き継ぎは重要である。私は、最初に和医大の整形外科から角谷整形に移った。このとき、本気で柔道をしていること、和医大ではなく角谷を選んだのはスポーツ復帰のリハビリのためだということが、まず、正確に伝わっていなかった。そして、理学療法士から理学療法士へ、病院から病院へ、肝心な情報はつたわらず、不確かな情報ばかりが一人歩きしてしまった。大袈裟といわれようと、生意気といわれようと、今の時代はきっちり自己アピールすることが必要である。謙虚や謙遜は美徳ではない。今回は、まざまざと思い知った。
魔の2週間。手始めは「むちゃな患者」というレッテルだった。膝が順調に治り、日常生活を普通に送り、柴犬の散歩もでき、柔道も復帰目前というときに、たった1つのカルテが私をどん底に突き落とした。柔道やサッカーでトップレベルに戻りたい、教員として正規採用に復帰したいと言う思いは、復帰のためなら、ありとあらゆる努力を惜しまない行動に現れていた。しかし、その努力を正当に評価する人は少なかった。海南の理学療法士達は、間違ったうわさを信じ、私を我侭で勝手なことばかりする「不良患者」とみなし始めた。「果樹の収穫時期だから」頑張りすぎるという言い分けも通じなかった。

しもたま柔道&闘病日記ーその32-

しもたま柔道&闘病日記ーその32-

退院した私は、2005年1月17日より職場に復帰した。バイクと電車とバスを乗り継いで。和歌山駅にもエレベーターが設置されていたのは幸いだった。「しゃば」にでて学習したのは、子どもよりも大人が、とりわけ日本人中年男性が一番危険なことである。通行時には誰にでも扉を開けておく習慣のある外国人と異なり、日本人男性は、自分が優位であり、職場の上司か客でもない限り通行時にゆずらない。男性同士ならぶつかるのもいとわず、ぶつかられるのがいやな年配者や女性、年少者が逆に譲ってくれることに慣れている。したがって、ドアを通過するときには出会い頭にほぼ間違い無く、真っ直ぐぶつかってくる。だが私は避ける事ができない。なぜか。人を前方に発見し、進路をひと1人分くらい横にずらすまで、当時(20051月、34歳)の私は、約3秒はかかっていた。つまり、秒速2mで歩く人をよけるには、6mくらい手前で人を発見したときから横へ動き始めていなくてはならない。ドア付近の出会い頭では、それが間に合わないのである。しかし、相手は中年日本男児である。「なにをこの小生意気な」と言わんばかりに、避けない私を睨みつけつつぶつかってゆく。倒れでもして靭帯が切れたら一巻の終わりの私は、その男が去るまで恐怖にさらされ続ける。2番目に恐いのはスーパーで買物中の女性達である。短時間のあいだに買って帰ろうと、目が商品に向いており、私の松葉杖まで視界に入らないらしい。カートの勢いよろしくぶつかってきたり、杖に「足払い」をかけにくる。一方の子どもは、ふざけたりよそ見したりしているわりに運動神経がよく、さっさとよけて走っていってくれる。中学校の生徒達も、とても親切にいたわってくれた。松葉杖をつきながら子どもや若者といて、恐いと思ったことは一度もなかった。これからの未来も捨てたもんじゃないね。そんなわけで、いくらエレベーターやら箱ものでバリアフリーを歌っても、人々の意識が変らにゃ障害のある人は街に出て来れないんだなあと、手術をしてから痛感した。一見“紳士淑女”そうな人よりも、いかつい“おあにいさん”が、エレベーターのボタンを押しつづけてくれたりするのが、世の中なのである。

そのうちに「中学校の仕事の帰り道」というにはJR和歌山駅から歩いて10分の病院は遠く、出勤が早朝、帰宅が深夜になるのは身体がつらく、なんとか近くの病院に移れないかと思い始めた。スポーツ復帰に頼りにしていたトレーナーの西林さんが3月でやめるといううわさも要因の一つだ。さらに悪いことは重なるもので、理学療法士のQ氏が、受験生の親にたのまれ断れなかったらしく、雑談中に中学校の入試情報をあれこれ探りを入れてくるようになり、入試についてはタッチしていないと説明し続けるのがおっくうになってきた。しかも彼は、入院中に私を、ニューハーフとたまに間違えた「つわもの」である。明るいラテンなノリの男だが、あまりに失礼な誤解であったので、出来るだけ、個人情報漏洩や職場の機密につながる深い会話を避けていた。
私の仕事も3月までなので、病院を和歌山市にこだわる理由はない。岩崎先生に転院を希望すると、2月に紹介状を書いてもらえることになった。こうして病院探しが始まった。有田の病院では、お年寄りの日常復帰のリハビリが中心で、スポーツ復帰を目的としたアスレチックジムを備えている所はなかった。滝川柔道場の高校生の紹介で、海南のとある整形外科に見学に行った。それはそれは素晴らしい設備で、最新のトレーニング機器がたくさんあり、さらに週に一回、有能なスポーツドクターが来て競技復帰を支えてくれるという。
そこは、封建的な地方病院ではなく、私を一人の柔道選手として扱ってくれた。私は、海南の病院に移ることを決めた。
転院した最初は、とてもリハビリが順調に進んでいた。新しい病院は家から30分と近い上、担当になった理学療法士は温厚な方で、トレーニング中はずうっとつきそって、足に負担が無いよう器具を調節していてくれた。右の靭帯も伸ばしている私は、手術していない足でもかばう必要があり、その事をよく理解して下さった。説明もわかりやすく丁寧だった。いっそうすばらしいことに、スポーツドクターの診察で、一番始めにかけてくれたのが「ところで、いつ、競技復帰の予定ですか?」という言葉だった。涙が出そうになった。きちんと、競技者として扱ってくれている!和歌山でこの言葉を聞くのは初めてだ。私は一瞬、来年の6月末のマスターズ大会(年齢別の大会)を思い浮かべたが、さすがにそのまま伝えるのはいくらなんでも傲慢に思い、謙虚に「来年の夏の大会です」とだけ答えた。「今年の夏ではないんですね?」ドクターはけげんそうに聞く。「早ければ4月からランニングを開始できます。メニューを組みましょう」こうして、練習量こそ角谷整形のリハビリの半分に減ったものの、内容の濃いリハビリが始まった。もしかして、本当に来年夏のマスターズに間に合うかもしれないと思うと、切ってよかった、転院してよかったとしみじみ感じた。せっせとリハビリに精を出した。
雲行きが怪しくなったのは、1週間後のことだ。担当の海南の理学療法士が、「角谷にリハビリのカルテを送るよう頼んだら、今日、チーフのK先生が直接(海南まで)持ってきてくれるそうです」と言う。なにか、不安な影がよぎった。角谷で手術直後からの担当の理学療法士Q氏(世間話はうまかったが、理学療法士としての技術は不明。伝達ミスが多く、本当の理学療法士かと、今では思う)とは、学校のことなど世間話ばかりで、治療や柔道の話をあまりする機会が無かった。彼の書いたカルテだろうか?カルテに、「中学校受験の選抜方法について、患者は知らないという」とか、書いてあるのか?それとも、転院間際に引き継いだY氏(彼は私のことを、かなりビビッており、脚を持つ手が震えていた。Q氏から、引継ぎで何を聞かされていたのかと想像する。まさか、変態ニューハーフネタではあるまい。労基署がらみの、例の中学校の事件か?)の書いたカルテだろうか? Y氏とは海南に移るまでの取り合えずの“リリーフ投手(引き継ぎ)”と割り切ることにして、当たり障りのない会話をしていたから、 Y氏は私のことをよく知らないはずだ。ただ以前、Y氏の診察時間に間に合わないことがあった。受付担当の女性に、「Y氏はずうっと待っていたんですよ!!遅れるときは事前に電話くらいして下さい!」と、頭ごなしに叱られてしまった。前のK氏はラテン的な人だったので、仕事が忙しいなら来れる時間にくればいいよと言ってくれていた。引き継いだY氏も、自分がいないときは他の人に頼みますからと言ってくれていた。私はお二人の言葉にずうっと甘えていた。しかし、受付の女性にはそのことはまったく伝わっていなかったらしい。長距離通勤と長時間勤務で、疲れていた私は、治療を続ける自信を失い、「忙しくて時間どおりに来れないことは先生に言ってあります。通院はもう無理なので、これからは自分で自主トレします!」とたんかを切って帰ってきた。その後、Y氏とうまく和解し、リハビリは続いていた。生活に役立つ情報をY氏がいろいろ教えてくれるなどし、表向きは平穏にすぎていた。しかしそのトラブルがカルテに書いてある可能性は充分にあった。再婚先に前の家族が秘話を持って押しかけるかのように、カルテ到着は不気味だった。私は、何事も起こりませんようにと、祈るばかりだった。
悪いことは続くものである。最悪の2週間の続きは次号にて。